1951-03-30 第10回国会 衆議院 大蔵委員会 第46号
このことにつきましても、過般参與、理事及び評議員の補充をいたしましたときに、一度実施いたしましたのでございます。いずれもさような方式でなければどうにもならぬということは、よく御承知の方々でございましたので、その通りに御実行になりまして、何ら支障なく運営して参りましたのでございます。
このことにつきましても、過般参與、理事及び評議員の補充をいたしましたときに、一度実施いたしましたのでございます。いずれもさような方式でなければどうにもならぬということは、よく御承知の方々でございましたので、その通りに御実行になりまして、何ら支障なく運営して参りましたのでございます。
参與、理事の方こそ理事長の下においていろいろ補佐をしていただくという形になつております。これが選任につきましても、先ほど申し上げたように、認可というものは今小山委員の仰せの認証のような軽いものとは、農林中金の関係者は理解しておらないのでございます。大丈夫と思います。
○政府委員(西原直廉君) 日本銀行の参與という制度は当初参與会というものがございまして、その後参與理事という制度ができたのでございますが、この現在参與になつておられます方々の数は十一人でございます。そのうち金融界の方が大体三人、産業界の方が四人、その他学識経驗者が……
從來はこの機構は参與理事会という名称でありましたが、今日におきましては、政策委員会という名称で、大体各方面の意見を取りつつ政策の決定をいたしたわけであります。而もこの委員会の五名の任命される委員というものは、実際に産業、金融に特に関係のある極めて公正妥当な人達なのでありまして、從いましてこの委員会自体が一つの意思の決定であつて、この委員会の一委員が意思を決定するというのではありません。
そうして昭和十五年の七月にその会社が日本肥料になりましたので、日本肥料株式会社法によりました日本肥料の参與理事として入りまして、そこで配給部長、運輸部長、業務部長等を歴任いたしました。昭和十九年だつたと思いますが、業務本社理事になりました。そうして終戰の年の十一月に日本水素の常務に選任されました。
それで当時鉄鋼統制会の会長であり、かつ日本製鉄株式会社の社長でありました渡邊義介氏に同道願うことにして、当時鉄鋼統制会の参與理事をいたしておりました私に一緒に行つてくれということで、アメリカン・クラブに参りました。そしてバラード大佐から大体このようなお話があつたと思います。 日本國民は終戰以來放心虚脱の状態におる。しかるに日本國の再建は日本国民の責任である。